昭和四十八年八月十二日 朝の御理解


御理解第一節
「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。」


 昨日、御本部から、光昭が頂いて来ておるらしいものなのですけれども、福田源三郎という偉い先生が居られました方の偲び草に、教話集を開かせて頂いたら、丁度、御理解一節のところを頂いた、私が、教典をもって頂きましたところも丁度、御理解一節でございましたから、少し、福田源三郎先生の説かれるところの、御理解第一節を少しですから聞いて頂きましょう。
 これはまあ、どう理解してよろしいか、なかなか難しいところでございますが、天地の開ける音という音が、所謂音響としての音があるとは、私たちには思えないのでございます、けれども、教祖の神様は、国枝三五郎さんという方が参って見えておる時、フト表をご覧になり、あれあれ、あの様に天地の開ける音がしておりますが、あなたには聞こえませんか、と仰有った事があると云う事であります。 そう云うのをうかがいますというと、そうした音がある様にも思われるのでございますが、それは、或いは、国枝三五郎さんに対して、本当の信心の目を開かすために仰有った事かも知れないのであります、それは、私には判りません、私達が天地が開ける音というのを考えて見ました。
 今まで、天地というものを当たり前にしか考えておらん、それどころか、天地は金神、悪神、邪神があって、そうしてまあ1つ間違えば、人間に大変な禍を齎らすような、そうした神様が游行して歩いておる、そういう天地と思って居ったのでございます。
 ところが、生神金光大神のご出現によって、天地は、天地金乃神様と申し上げ、我々一切の人間の親神様であらせられるところの神様、これは、ご神徳の満ちわたらせられる、しかも、天は恵、地は物を生じ、天が父なら、地は母じゃ、という様なそうした親神様の、お守り、お恵に満ちわたっている天地なんだという事が、今まで、迷妄の迷いの中に閉じ込められておりました。
 一切の人間に対して、お前達が考えておった様な、今まで思っておった様な、そんな天地ではないんだぞ、こんなに有り難い、こんなに尊いんだぞと云う事を金光大神によって、知らされたのでございます。
 こう頂いて参りますと、成る程、天地の中には、金神という游行神が有ってそして、人間に禍を、こちら1つ間違うたら、知って向かえば命をとり、知らずに向うたら、目を取るという程しのものが、天地の中にはそういうものがあって、そんなに、風にしか頂きえなかった人間、それを天地という処は、それこそ天は、物を恵み、地は物を生じもう御神徳の満ちわたらせられた、天地なのだぞと、それを、教祖は天地金乃神様と申し上げておられるのだと云う事を教えておられる。
 そう云う事が判るという事が、私はやはり、天地の開ける音を聞いて目を覚ましたのだと思います、ああ天地というものは、この様に有り難いものだと、しかも親子の情をもって、天が父なら、地は母だという様にです、そう云う関わりあい、そういう関係を持って、私共天地の間の働きをです、金光大神の働きによって出来れる道だという事です。
 だから、お話を頂いて、その実感としてです、だから私は、目を開かせて頂いたという、天地の開ける音を聞いて目を覚ましたというか、目を開いたという事はです、この神様のおかげを頂かなければ、人間の真実の幸せはあり得ないんだと、判らせて頂くという事、それを判らないところにいつまでも、我情我欲を云うて、難儀の淵から、這い上がるという事が出来ないという事が、信心のない者、または、信心の薄い者の姿であるという事ではないかと思います。
 今日はだから、福田源三郎先生のご教話を、一節を聞かせて頂いて、云うなら天地の開ける音を聞いて目を覚まさして下さったのではないでしょうか、成る程なと合点がいったら、目が開けた訳です、同時に今、私が申しますそれを実感としてです、実感としてこの神様のおかげを頂かなければです、云うならば、ここ1寸が動かれない程のものだという事、天地のご恩恵がなからなければです、私共は立ち行かんのであり、しかも、その天地のご恩恵の中から、金光大神お取次ぎの働きによってです、人間の幸福の条件の総てを、頂いて行けれるほどしの事なんだという事を判らせて頂く事が、これはもう実感として、天地の開ける音を聞いて目を覚ましたのです。
 理論の上で、今、福田先生のお話を聞いて判った、丁度、いまでも金神游行という事を信じておる者すらがあります、それを金光教の信心として頂く者は、その迷妄を打破する、そういう迷いから、覚めるという事がです、天地の開ける音を聞いて目を覚ました事になる。
 それを信心さして頂いておるうちにです、実感として、この神様のおかげを頂かなければです、人間の幸せはあり得ないのだと、実感させて頂くところから、愈々、信心を手篤うしなければ居られない事になって来る、それをもちっと、実感的に申しますとです、神様が見ておいでである、神様が聞いておいでである、神様が私共の上に働いておって下さるという事になるのです。
 神様が、とりわけ金光大神のお取次ぎを頂いて、信者氏子として取り立てて頂いておる、お育てを頂いておる、私たちの上においては、とりわけ神様が目を掛けておって下さるのである、神様が見ておいでであり、神様が特別に私共の上にお働きかけて下さってあるんだという事をです、判るという事。
 今朝、私、御神前で、ここ辺ではジヤンケンポイと申します、グウ、チョキ、パアあれを頂くんですグウというのは石ですね、チョキというのは鋏です、パアというのは風呂敷を云います、その事から、私は今日のこの御理解を頂いて、たまたま、御結界に置いてあった、福田源三郎先生のご教話集を開いたところが、丁度この御理解第一節であった。
 今日私が頂いておるのも、御理解一節であった、そこで、どこをどう判らせて頂く事を、云うならば観念の上でも、そうだと判らせて頂く意味において、福田源三郎先生のお話の一端ですけれども、聞いて頂いて合点が行くだろうと思う。
 それをも少し具体的に、も少し実感的に、皆さんに聞いて頂いた、私の所謂、天地の開ける音を聞いて目を覚ました者の姿というのは、どう言う事かというと、神様は、見ておいでであり、聞いておいでであり、働いて、神様は何時も働いておって下さるんだという事を、実感さして貰う、ですからお礼申し上げる以外にない。
 それをまた、改めて、グウ、チョキ、パアとはどう云う事であろうかと、まあ、私風に頂いたんですけど、グウという事は石という事です、石という事は、意志は心に通ずるという事、石の様に固い心だという風に私は感じました、云うならば、強い信心を持たせて頂くという事だと思いました、グウと云うのは。
 チョキと云うのは、鋏と申します、貯金、貯金、貯金とこういう訳ですから、徳を積む事だと思いました。
 風呂敷というのは、受け物であると同時にです、限りなく美しうならせて頂くという事、放しきるという事、だからここの、今日の御一節をです、観念の上にも判らせて貰い、具体的にもそうだと判らせて頂いたら、その天地の親神様の、云うなら、御信用を、愈々頂いて行く事の為に、グウ、チョキ、パアが必要なんです。
 愈々、どういう信念かというと、神様のおかげを頂かなければ立ち行かないという、その信念ですけれども、そんならその神様の、お心をお心として、頂いて行くという事は、どう云う事かと、それにはまず、私共が、信心によって固い意志、所謂固い心というか、信念に満ち溢れる心を頂かして頂く為に修行をする。
 そこに信心の稽古がある訳です、月次祭に、熊本の坪井教会の先生のお話をいたしましたね、お父さんが肺病でもう助からないというところをです、おかげを頂いて、金光様のお話を始めて聞かれた、熊本教会に御神縁を頂かれて、お話を頂いてびっくりされた。
 天地の大恩を聞かれた、天地のご恩恵を聞かれて、これはこの神様で助かるぞという生き生きとした心が生まれてきた、病院を退院して、近くに妹さんと2人で下宿なさってから、毎日お参りさして貰うとるうちにです、みるみる元気になっていかれた、ところが、2か月ばっかりたった時に、ちょっとした風をひかれたか何からかでしょうか、また、病気が元へぶりかえってしまった、ああ、あんなにおかげを受けた、おかげを受けたと思うて居ったのも、あれはそうではなかった。
 やっぱり信心で、おかげを頂けるという事は、無理だという風に意気消沈された、その時に、妹さんの方がお参りをされて、先生のお話を頂かれた、ああ成る程おかげを頂くという事はです、先ずは受け物を作らなければならない、先ずはめぐりのお取り払いを頂かなければならない、2か月の間に、はあ、このまま助かるというほどしの思いがするほどしに、おかげが開けて来たかに見えたけれども、もう2か月目には元の木阿弥に戻った時にです、めぐりのお取払い、もうそれこそ、臭い息が出る、臭い啖が出る、体は、愈々憔悴して食事もいけなくなって来た。
 だからその事が有り難いのだと説かれた、それからまた元気づかれて、またお参りされて、まあそれから何回もそういう云うならお試しと申しましょうか、そう云うところを見事に落第しようとしては、パスしながらおかげを頂いて、87歳までも生きられた、ご夫婦は病身であるけれども、今のお母さん、奥様は、まだ現に81歳で、現在でご用ができておられる、と云う様な、そういう例えば、繰り返しをして行くうちにです、私共は、神様は見ておいでである、聞いておいでである、働きかけておって下さるのである、その働きというものは、氏子に力を与えたいばかりの働きである事を、知らなければいけんです。
 どんな場合であっても、愈々おかげを下さる働き以外にないという事を、それをここでは神愛と申しております、だからその神愛をです、成り行きを尊ぶとか成り行きを大切にするとか、という事柄をです、御事柄として神様が、私に下さったものとして、頂いて行くという生き方の上に、力は愈々出来てくるのです。
 そういう事を直面するたんびんに神様を信じて疑わないと云う力が愈々生まれてくる、チョクと申しましょうか、あぁこれが御神徳というものであろうかと。
 昨日、私は或る用事で、急に久留米に出かけねばならなかった、まだ、繁雄さん、電話がかかって向こうにおって頂いたから、一緒に来て頂いた、けども、今日という今日は愈々車が無いから、久し振りにバスでいっちょ行こうではないかというて、表まで出かけた時に、もう滅多に参って来ない人が、今日は親先生どちらえお出かけですかと云う事を、繁雄さんに聞かれて、どうぞ車代は、私がおかげを頂きますから、どうぞ車で行って下さい。
 丁度、往復の車代をおかげ頂いた、そう云う時に、まあ自惚れではないかも知れませんけども、それがいつもでありますから、私の場合、はあ、こう云うものが神様の御信用を頂かなければ出来る事じゃないなあと云う事になるのです。
 なら、皆さんだってそういうお取次ぎを頂いて、本当に神様の間違い無さに恐れ入ってしまうと、それは、皆さんがもうすでに、神様の御信用を、御神徳を頂いていかれる姿なのです。
 ですから、そう云うものが、そういう力がです、愈々頂かせて頂くために、限りなくお互いが美しくならなければいけんのです。
 風呂敷です、それが受け物であると同時に、風呂敷という事は、グー、チョキ、パーとこう放すという事、これは、限りなく美しくならなければ出来る事ではない放す事の鮮やかな信心、鮮やかな放し方の出来れる私共にならせて頂くという事。
 そういう、例えば、今日私が聞いて頂く、今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませという、目を覚ました者の姿というのは、こういう姿だ、ならそういう姿にならせて頂くためには、1つグー、チョキ、パーという信心を愈々身につけて行く事に精進させて貰うという事がです、それを、愈々、目を開かせて頂いた者が、そこに焦点を置いて信心させて頂くなら、グー、チョキ、パーというところの焦点をおいて、信心を進めさして頂くならです、愈々神様の御信任を厚うする事が出来、お徳を受け、天地の親神様との関わり合いという事も、なるほど親神様じゃなぁという実感の中に、日々を、有り難く過ごさして頂く事が出来る。
 だから、観念の上に判ったというだけではいけん、例えば、福田先生のお話を頂いてです、今のお話を頂くなら、誰だってあぁ、そういうもんかなあと、判るだろうけれども、やっぱり、昔から云ってあるとじゃけんで、金神除けてんなんてん、やっぱぁせにゃというて、そこから迷妄を脱する事が出来なかったら、いつまでたっても、窮屈な天地を世界にしてしまわなければならない、自由自在、自由無碍の有り難い世界を、それが悟らして貰うた時に始めて、天地の開ける音を聞いて、目を覚ましたという事になるのではないでしょうか、その中の事を云うならば具体的に、頂いていくという事、の信心を今日は聞いて頂いた訳けですね。    どうぞ。